ジョナサン・クレーリー 「観察者の系譜」その1
古典的視覚・ルネッサンス的視覚 / 19C 20C のモダニズム的視覚の間に、生産・認識・欲望の能力についての変更があり、根本的に切断されている。
それはモダニズム神話の中の「写真」に帰納できるべきものではなく、身体と社会的権力の作用をめぐる問いであると。
「観察者 observer」
①能動的に「見る」
②定められた可能性の枠内で見る
③convension や限界に埋め込まれた存在である
→社会や制度の枠内にしか「観察者」というのは存在しない。
そして19cの諸条件・力が、その19c観察者の輪郭をかたち作ったと言える。
18c 的なもの:抑圧された・模倣・鏡
↓ (観察者のmodernization )
19c 的なもの:Vision(主観的視覚)=観察者の生産性・表出(expression)・ランプ
大地に根付くものを 根こそぎ「流動的に」にさせるのが「資本主義」の根底部
大地に根付くもの:商品・富・労働力・身体・記号・イメージ・言語
→それらがすべて資本主義によって、「一時的な位置喪失」
《考察》Cash Flow:流動性でしか評価できないもっとも最たるもの
①フローの条件の中でのみ機能
②幸福・平等というのは、「もの・記号」によって測定可能(ボードリヤールを読め)
Modernity = On Demand な記号の増殖
イミテーション・コピーは記号の独占に対する挑戦
→ミメーシスの生産能力=権力それ自体
→確定不能な相互シュミラークル
《考察》大量製造・大量複製技術には、フォトリソやモールド成型が主流、それらはもともと写真と版画に由来するもので、近代資本主義=記号の硬直性の排除であり量産技術そのものである
視覚表象の連続 ⇄ 価値・欲望、流通・交換、貨幣・写真 (平準化・民主化・単なる象徴)
《考察》Indexical な存在である写真(パース、クラウス)が資本主義によって切断され、平準化された結果、リファレンス不可能な象徴=シンボルに回帰する。それは普遍論争における唯名主義にあたるのではないか。
視覚の独立性が主張されたのは、視覚が引き剥がされたから
・主体が制度を通して、近代化・合理化していく=アンシャンレジームからの脱却
・権力の脱中心か
→視覚もしかりで、それまでは特権的だった視覚が脱中心かしていった
生物学的な「眼」についての知
→視覚をパラメーター化し、「正常な視覚」を規範する=Sightの自律化
個人が再計算可能・交換可能である。(《考》教育も同じ働きか?)
視覚それ自体がdiscipline であり、身体の配置・制御は19cの視覚器具を通して、コードか・正常化(normalization) された。視覚を「諸感覚」から引き剥がした。
=産業主義による身体のRemapping.